ファイツ!!
なんか、最近、金継ぎ図書館の更新頻度が下がったよねー。何やってんのかしら、アホ館長は?(サボり??)
いやー、サボっているわけじゃないんです。只今、「框かまち」っていうものを作っているんです。
カマチ???って何?って感じですよね。框かまちというのは仏像とかが乗っている「台座」のことです。
↑こういうことです。こういうの、作っています。鬼の下にある「台」です。はい。
自主制作?
いえ、そんなもの自主制作するわけありません(作っても意味ないしー)。福井の方のお寺さんからの「依頼」です。
依頼されたものは「ただの四角形」です。けど、デカい!この「大きい」っていうのがすごく厄介なのです(涙)
木地は秋田杉の目の細かい良材を使って、三枚を貼り合わせています。貼り合わせた接着箇所に刻苧漆こくそうるし(パテ)を充填し、その後、布を2枚着せています。
現在、錆漆さびうるし(ペースト)を塗って、それを研いでいます。「平滑な面」が出るまで、研いだり錆を付けたり…を繰り返しています。
このくらいの大きさになると「平滑な面」を作るのが相当ハードになります。ゲンナリするくらい嫌になります(涙)
5年くらい前まで、この「框かまち」というのを年に4,5個作っていました。正直、値段と労力とが全く見合わない仕事でして、時給でいうと¥500-みたいな感じでやっていました。仕事というよりかは自己鍛錬のための「苦行」としてやっていた感じです。(いや、ほんとツライですよ~)
当たり前なのですが、ただの「台座」なので、仕事としての単価がすごく安いんです。その上に乗せる仏像にはナンボでもお金を掛けますが、僕の作っていたのはただの黒い漆塗りの台座ですからねー。「こんなもの、安く作らせろ」…ってことになるわけです。
しかも、何となく自分自身の「立場」も弱いんです。仏像を作る人の方が「エライ」感じになるわけです(「エラそうな人」もすごく多いです(苦笑))。当然と言えば、当然な感じもしますが。
それに、手間ひまかけて丹念に仕上げたとしても、台座なんて誰も見向きもしない。当たり前なのですが。
で、「こんな仕事してちゃダメだ!」って思うわけです。修行にしかならない。ってことで、5年くらい前に、一切、框の仕事は受けないことにしました◎
「もう、二度とやるものか!」って決めていたのですが、懇意にしている人がわざわざ「鳩屋くん、そこを何とかやってくれないか?」とまで言ってくれたので、これは断るわけにはいかないなと思い(実は何度か断りましたが)、「人生最後の一個」としてお引き受けすることにしたのです。
けど、久しぶりに作ってみて、「やっぱり、これはキツイな~」って感じています(苦笑) (もう、二度とやらないぞー)
なんで、そんな「ただの四角形」を作るのが大変なの?簡単そうに思うけど。…って思いますよね。
いやー、これが死ぬほど大変なのです。あまり仕事の愚痴をこぼすのも情けないのですが、これは「やっちゃいけない仕事だなー」ってつくづく感じます。
「きれいな平滑な面」を作るのって大変なのです。実は。
僕が作り続けて、考えてきた「きれいなカマチ」を説明させてください。かなりマニアックですが。
ちなみに、上に乗せる仏像によって雰囲気を微調整させます。
まずは「台の上面」を「甲盛り」にします。ちょい、「山」のようにもっこりさせる…ってことです。(「もっこり」じゃなくて、「ふっくら」ですね◎)
その「もっこり」具合ですが、全体を均一にもっこりさせると、ダサくなります。端っこは「急もっこり」、内側は「ゆる・もっこり」にします。
一つの平滑な面の中に「形の変わり目(稜線)」を作ります。こうすると形が「締まり」ます。ふっくらの「リズム」に変化が出るからでしょうか。きっと音楽なんかとも共通することですよね。
(↑側面図)
台の側面についても同じ要領で面を作っていきます(カーブに変化を持たせる)。
あとは、「上面」から「下面」にかけて、「すぼまる」形にします。上の面の方が大きくなるわけです。
さらに、その「すぼまり方」も場所によって変化させます。端っこの方は「急」にすぼまり、中央になるにしたがって「緩やか」にすぼまります。
ただの「四角い台」なのですが、雰囲気としては↑のような「蓮の花」を感じられるものにしたいと思っています。(鳩は感じません)
これらのフォルムの「変化」はぱっと見では全く気付かない程度にします。よーく見て、定規でも当てた時にやっとわかる程度です。
「それって意味あるの?」と思いますよね。それ、100%、意味あります◎ 人が「意識の上」では認識できなくても、「無意識的」に感じている領域はすごく広いと思います。実はその領域で「何となく、これ、いいなー」って感じたり、「これ、何かイマイチ」って感じているのだと思います。
「周りの環境」や、「出会う人」に対しても、この「意識に上らない意識」で判断することがすごく重要なのだと思います。(通常、意識できないので難しいですが)
だけど、そこにしっかりと「届けたい」と思って、「たかが、台座」を作っています。(もう、絶対に作りませんがー)
こういったカーブの具合だとか、すぼまり具合、あとは「面取り」の幅の広さなどは上に乗せる仏像の雰囲気によって変えます。「微妙に」ですが。
厳しい雰囲気の像やシュッとした像が乗る場合には、台座の方も「シャープな感じ」になるように心がけます。柔らかい感じの像が乗る場合は、それなりに「ソフトな感じ」になるようにします。
「パルテノン神殿の柱」と「法隆寺の柱」とでは、そのラインのもたせかたが少し違うようです。このあたりは民族性というかその自然環境に長年、住み続けてきた感覚の違いから来るのかな、と考えています。
こんな感じで台座の制作はまだ続きます。八月一日、納品!